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相模原障害者施設殺傷事件でお怪我をされた方々、お亡くなりになられた方々、そしてその家族、関係者の方々に謹んでお悔やみとご冥福の祈念を申し上げます。同じ業界内で起こってしまった凄惨な事件について「つばさ静岡」の職員に今の心境を聞いてみました。

 

 相模原障害者施設殺傷事件を受けて

 
職員 匿名希望
 
職員 匿名希望
 

看護師S

命を受けた以上生きるという義務がある。義務には、何かの役割がある。その役割は、個々に違う。その役割を果たすために命あるかぎり精一杯生きないといけない。だからこそ、命を自分で絶ったり(自殺)、他人に命を奪われる事(戦争)はあってはならないと思う。

 

生活支援員Y

今回の事件は私達障害に携わる仕事をする人、または障害者本人・その家族にとって大きな衝撃を受けるものでした。事件後すぐに手をつなぐ育成会が声明をだしています。しかしその他行政・障害者団体の動きはなく、障害者福祉に対する議論がされていないことに違和感を覚えました。

《つばさで働く職員として》

1.障害者福祉に対するしっかりとした認識を持つこと

  「障害者を守ります」という主張をする団体がいる一方で、「一人の人間として守られる必要はない。

  自立して生きていきたい」と主張する障害者がいます。大切なことは、日本の障害者福祉の歩みを学ぶこと。

  これまで辿ってきた歴史を学び、様々な考えや主張を持った障害者が地域には存在するということ。

2.誤った主張と闘う姿勢

  昨年度茨城県の教育委員会が「障害児出産を減らしていければ良い」という発言をして避難を受けました。

  今回の容疑者は「障害者はいなくなれば良い」と発言をしています。果たして容疑者を「異常者」として社会

   から排除して終わらせて良いのだろうか…。

  被害者が障害者だという理由で亡くなられた方の名前が公表されないことに、反発する地域の障害者が

  います。遺族の気持ちを尊重し名前が伏せられていましたが、それは障害者差別ではないかと。

  「日本の障害者を隠蔽する体質」がまだまだ残っているのではないか…。

  「障害者差別をしない」という認識が社会全体で浸透していく一方で、「あきらかに間違っている考え」が

  社会の水面下で潜在していないのかを敏感に察知し、そうであれば徹底的にその主張と闘う姿勢が大切

   だと感じます。

3.虐待の芽を摘むこと

  職員の関わりや細かな声掛け方法(呼称含め)、定期的に職員に警鐘を促す。システム等の見直し。

4.防犯対策を徹底していく。

 

生活支援員 K

まず、職員としての感想は守りたくても守れないということです。職員として勤務している状態でそのような状況に陥ったら、真っ先に逃げることを考えるでしょう。明らかに自らの命が危険になるからです。今回の事件はテロそのものだと考えます。と言っても、施設にテロ対策委員会をおくようなことは現実的ではありません。しかし、防災の一貫として不審者への対応訓練の実施はあっても良いのではないかと感じました。

つばさ静岡に置き換えた時に、感じることはまずはセキュリティの問題です。これは窓硝子を割られたら対応できないので対策はできないと思います。事務当直業務として解錠がありますが、事務所職員がいない時間帯に解錠を行なう事はリスクが伴うと考えます。インターホンがある限り、そこで対応するのが望ましいと考えます。

次に元職員との問題です。元職員が犯行に及んだことに対しては、報道されている通り容疑者に異常な精神状態が見受けられるため特殊なケースだと思いますが、辞めさせられたという感覚になる元職員はゼロではないと思います。施設側として現実的に辞めさせたという気はなくても、そのように追いやられたり、辞めるという判断をするしかない状態に陥ったりして円満に退職できなかった職員がいるのかもしれません。人によっては恨みがある元職員もいるかもしれません。それがこのような形で異常な犯行に及ばなかったとしても、風評被害を与えたり、小さないたずらをしたりという可能性は十分に考えられます。

現在施行させている総合福祉法では、施設利用者は消費者であり、規制緩和で様々なところから事業所が生まれ、サービスの向上に努めるという方向になっています。しかし、私たちのような障害者の入所施設は戦後生活困窮者を守る施設として始まり、救護の考えを捨てきれません。もちろん捨てることが必要かというとそうではないとも思います。しかし、支援費制度以前の施設のあり方を経験している人はどうしても職員が利用者の世話をしている、つまり上下関係がそこに生まれてしまうことに慣れてしまっているのではないでしょうか。逆に障害者自立支援法以降にできた新規参入業者は、利益追求としてのサービスがあるものの、利用者のことをお客さんとしてみることで買い手市場になり、割り切った仕事ができているのではないかと考えます。つまり、今回の事件に関しても歴史の長い社会福祉法人の施設が生んだ、一職員と考えても大げさではありません。もちろん特殊なケースではあります。報道を見てもNPOや株式会社など新規参入業者の金銭トラブルが多いのに対して、虐待など対利用者に対する事件は社会福祉法人の方が多いように感じます。

私たちは、日々利用者と接する中で何を守っていく必要があるのか、また『守る』という考え方が合っているのか考えてしまいます。今回の卑劣な犯行は利用者に恐怖を与えたことでしょう。その恐怖心を解消していくために日々の親切で丁寧な支援が求められると思います。いままでと大きく何を変えるわけではありませんが、この事件をうけ私たちは少なからず疑われる立場になったことを念頭に置き、利用者との接し方、保護者対応をした方がよいのではないでしょうか。保護者の立場になったときに、『うちは大丈夫だろうか』と感じるのが普通です。私たちがしている支援は一人ひとりに寄り添い誇れるものだと思います。そのためにも一層の施設の透明化が必要だと感じます。開かれた施設を目指すなか、このような事件は逆風ですが、世間の関心がある今こそ外に出て知ってもらうことが必要だと感じました。

 

職員 匿名希望

言葉にする事も辛いとても悲しい事件です。事件発生から約一月経ちました。事件に関する報道も減り風化傾向を感じます。かつて起こった秋葉原事件や大阪池田小事件と比べ、事件発生当初から報道のされ方が小さかった様に思いました。それは私自身が同じ障害者施設に従事する職員の立場として過大に事件を意識しているからでしょうか? 事件の重大性の判断を人に押し付ける事は出来ませんが障害を持つ方を尊ぶ気持ちを共有できる人を増やす事の必要性を感じます。この様な事件の経緯を追い多様な検証や防犯等の対策も当然必要でありますが、福祉を取り巻く環境を身近に感じてもらえる様、地域に根差した開放的な施設を今まで以上に目指すべきであると思います。

 

生活支援員 O

今回の事件で施設職員は、いろんな意味で試されているように思います。まず、事件後、やたらと耳にする「優生思想」です。メディアでは犯人の狂気をあらわす代名詞のように扱ってますが、優生思想それ自体はナチスドイツよりも以前からある考えで、現代社会に浸透している思想です。狂気でも何でもありません。劣ったものより優れている方がいいという考えは、福祉にたずさわる者にとって一見受け容れがたい考えかもしれませんが、例えば生きる上でこうした方がいいとか、しないとかといった選択、決断は医療に関わる以上、避けられません。だから私たちは優劣を判断する思想と切っても切れない関係にあります。

 もちろん、だからといって優生思想がよいということではありません。できれば「みんなちがってみんないい」(金子みすず)と多様性を擁護したいところですが、それだけではあまりに楽観的だし、また無責任すぎるように思います。大切なのは、優生思想それ自体を過剰に敵視しても意味がないということではないでしょうか。

 おそらく今回の事件で、私たち施設職員にとってより切実な問題は、犯人がほかならぬ元施設職員だったという点ではないでしょうか。私たちと同じように業務に関わっていた者が犯人だったという事実。これこそ私たち施設職員がもっとも触れたくないことではないでしょうか。事件後、多くの人がコメントを出していますが、この点に触れた施設職員のコメントは皆無です。確かにセキュリティも大切ですが、そこに議論が傾くのも、今回の事件が元施設職員の起こした犯行であるという事実に触れたくないという心理の裏返しであるようにも思います。

 私たちの中に「犯人」がいるとは言いません。そのように言う必要もないでしょう。ただ、犯人が思いのほか私たち職員の近くにいた(、、、、、、、、、、、)というのは事実です。それは一歩間違えば、私たちは「犯人」になりうるということでもあります。現在、おそらくどの職員もこの悪夢のような事実に極力触れないように日々の業務を行っているように思います。でもこの事実は消えません。また消すべきでもないでしょう。利用者や保護者に対して誠実な態度でありたいというのであればなおさらです。一番悪質なのは、そのような事実などあたかもないかのようにふるまうことであって、現にあるそうした風潮に私は苛立ちと歯がゆさを感じています。

 

生活支援員 M    

2016年7月26日から、自分の心の中では、今まで見ようとしてこなかったことを見ざるを得なくなり、そして考えざるを得なくなっているように感じています。そのことについて何か言葉を発しようとしても抽象的且つ感覚的なことしか言えませんが、それでも今はただ、考え続けるしかないと思っています。 

その日の自分は早番勤務であり、起床後、簡単に身支度を済ませて足早に施設に向かいました。施設到着後、荷物を置きナースセンターにてカルテから情報を取っていると、他ゾーンの早番職員より「とても悲しい事件が起きましたね」と声を掛けられ、そこで初めて相模原での事件を知ることとなりました。 

同様の環境で働く者として、本来なら、この事件を耳にした途端に先ずはこの事件に関して心を痛めるべきであるとは思いますが、不謹慎にも自分の頭に浮んだことは「待遇に対する不満から来る逆恨みの犯行であろう」というただの勝手で稚拙な憶測でした。 

その後、いつも通りに業務に入った後も、幾度となくその事件のことが頭をよぎり、同僚職員や入所者の帰省の為に迎に来たご家族とそのことについて少々の言葉を交わしましたが、同様の環境で働く者としてこの事件は自分の今後のあり方を考える上でとても重要な出来事であると感じていた為、誰かと討論するのではなく帰宅後に各所から情報を集めて個人的に考えようとの思いを強くしていました。 

帰宅して夕食を済ませたあと、いつものようにパソコンの前に座り「産経新聞」「読売新聞」「毎日新聞」「時事通信」等と各社から数時間ごとに更新された事件の記事を読んでは後で読み返したり比べたりするためにワードに記事をコピペするという作業を続けていましたが、何か乗り切れないものを感じて次第に失速し当初の意気込みが徐々に薄れていきました。そして最終的に「これは優生思想だ」との思いに至った途端、この「作業」を無駄だと感じ止めることにしました。

 無駄だと感じたのはこの「作業」であり、考えることを止めたわけではありません。むしろ「考え続けなければ」と思い直しました。「これは優生思想だ」と思い「作業」を止めたのは、この事件がただ単に「待遇に対する不満から来る逆恨みの犯行」ではないこと、そして「事件が発生した施設内の入所者とその容疑者」だけのことでも「福祉関係」だけのことでもなく、もっと広く大きな問題であり、今の世の中、過去も、そしてこれからも大きく関わっていることだと感じたからであり、そもそも「作業」というものが思考停止な状態であると分かったからです。 

とても幼稚な考えですが、優生思想をもとにした「いる人間」と「いらない人間」という考え方は「単に、そもそも人間自体がいるのか」という考えに早々に行き当たり全く意味を成さないものになると思えます。また優生思想をもとにした犯行であるとして、現状を見ている限りでは、もう既に容疑者は「いらない人間」として世の中に烙印を押されている、ミイラ取りがミイラになったような感じがします。そして何よりも「いらない人間」として烙印を押しているその世の中には自分が含まれていることも事実です。 

― 優生思想は良くない。「いらない人間」などこの世にはいない。

― でも、だが、しかし・・・「いらない人間」などと発するお前は優生思想のとても悪い人間で「いらない人間」だ。

― 今・・・「いらない人間」などこの世にはいないと言いながら、とても悪いお前を「いらない人間」だと発したのは「いる人間」でありとても良い人間の私であるから・・・

《・・・だから・・・これは・・・その・・・全く矛盾していない、そしてこれは優生思想ではない》

― これは「いる人間」でありとても良い人間である私の真っ当な考えで、これが今の世の中で、そしてこれが全てだ・・・。 

この文章はとても短絡的で乱暴な言い回しだとは思いますが、でも今の世の中のこの状況を見る限りではただ単に受け流すことは出来ないのではないかと思います。

 今から20年ほど前、学生であった20代の自分は世の中に出ることに対してとても大きな不安を感じていました。「バブル崩壊後の失われた10年」それに伴う「就職氷河期」というような仄暗い世相に対しての不安というよりも、世の中の一員となることで自分自身が失われてしまうのではないかということに対しての根拠なき不安でした。そのような時に耳にしてとても気に掛かっていたことが一つあります。それは「ミルグラム実験」(1963年)です。 

[概要] アメリカ、イェール大学の心理学者、スタンリー・ミルグラム(Stanley Milgram)が1963年にアメリカの社会心理学会誌『Journal of Abnormal and Social Psychology』に投稿した、権威者の指示に従う人間の心理状況を実験したものである。東欧地域の数百万人のユダヤ人を絶滅収容所に輸送する責任者であったアドルフ・アイヒマンは、ドイツ敗戦後、南米アルゼンチンに逃亡して「リカルド・クレメント」の偽名を名乗り、自動車工場の主任としてひっそり暮らしていた。彼を追跡するイスラエルの諜報機関がクレメントは大物戦犯のアイヒマンであると判断した直接の証拠は、クレメントが妻の誕生日に花屋で彼女に贈る花束を購入したことであった。その日付はアイヒマンの妻の誕生日と一致した。またイスラエルにおけるアイヒマン裁判の過程で描き出されたアイヒマンの人間像は人格異常者などではなく、真摯に「職務」に励む一介の平凡で小心な公務員の姿だった。このことから「アイヒマンはじめ多くの戦争犯罪を実行したナチス戦犯たちは、そもそも特殊な人物であったのか。それとも家族の誕生日に花束を贈るような平凡な愛情を持つ普通の市民であっても、一定の条件下では、誰でもあのような残虐行為を犯すものなのか」という疑問が提起された。この実験は、アイヒマン裁判の翌年(1961年)に、上記の疑問を検証しようと実施されたため、「アイヒマン実験」とも言う。(Wikipedia) 

この実験を、世の中に対して大きな不安を持つ脆弱な自分は「世の中の一員となり自分自身を失う(殺される)前に自らを殺す」ことだと未熟さ故に浅く捉え何気に心の拠り所としていました。が、そう思いながらも就職活動中には、履歴書の自己アピール欄に座右の銘として必ず「和して同せず」などと真逆のことを書き、小さな抵抗を何の恥じらいもなく見せるとても滑稽な態度も取っていました。その様な自分も全く何事もなかったように1995年 「戦後50年」、「阪神淡路大震災」と「オウム真理教地下鉄サリン事件」の発生の年に社会人一年生となります。それから20年、2014年にどうしても見ておかなければと思う映画が静岡にて上映されることとなりました。「ハンナ・アーレント」(2012)です。 

[ストーリー]哲学者ハンナ・アーレントはかつてドイツに生まれ育ち、今でも仲間との会話はドイツ語で行うほどであるが、ナチスの政権獲得とともにフランスに亡命、親独のヴィシー政権によって抑留され、間一髪で脱走、米国に亡命した過去を持っていた。現在はニューヨークで大学教授として、最愛の夫ハインリッヒ、友人で作家のメアリー・マッカーシーらと穏やかな日を送っていた。1960年ブエノスアイレスで亡命生活を送っていたナチ高官のアイヒマンがモサドによって誘拐され、エルサレムで裁判を受けることとなり、ハンナは「ニューヨーカー」誌の特派員として、裁判を傍聴することを志願する。自らの過去と向き合う苦痛を耐えてまで傍聴した裁判であったが、被告アイヒマンの大量殺人を指揮したとは思えぬ凡庸さに当惑する。一方で裁判での証言から、当時のユダヤ人社会の指導者たちが、消極的にではあるがナチの政策に協力していたことまで明らかになってゆく。帰国したハンナは、膨大な裁判資料と向き合いながら、鬼畜のようなナチ高官と思われていたアイヒマンは、自らの役職を忠実に果たすことを自らに課していたに過ぎない小役人であること、一方でユダヤ人社会でも抵抗をあきらめたことで被害を拡大したこと、アイヒマンの行為は非難されるべきだが、そもそもアイヒマンを裁く刑法的な根拠は存在しないこと等をニューヨーカーの連載記事として掲載する。記事はユダヤ人社会の感情的な反発を招き、論文を読んだことすらないものまで「ナチスを擁護するものだ」と激烈な批判を寄せ、ハンナは大学から辞職勧告まで受ける。誤解を解き、自説を明らかにするため、ハンナは特別講義を行う。「アイヒマンは、ただ命令に従っただけだと弁明した。彼は、考えることをせず、ただ忠実に命令を実行した。そこには動機も善悪もない。思考をやめたとき、人間はいとも簡単に残虐な行為を行う。思考をやめたものは人間であることを拒絶したものだ。私が望むのは考えることで人間が強くなることだ」講義は学生たちの熱狂的な支持を得るが、一方で、古い友人たちは、それでも彼女に背を向け、教室を後にするのだった(Wikipedia)。 

20年前、もう既にハンナ・アーレントの「凡庸な悪」はそこにありましたが、その存在に気づき、僅かながらもその言葉を理解することが出来るようになるまでに20年掛かりました。そして2016年7月26日、自宅のパソコンの前で「これは優生思想だ」と思い「考え続けなければ」との思いに至ったのは、この20年があったからだと思えます。 

20年前の就職活動中の話で今までの話とは異なものとなりますが、とても印象的な出来事がありました。その日も夏の暑い中、着慣れないリクルートスーツを着て、心にも無い世の中に対する前向きな言葉を面接で発し続けたあと、帰宅して薄暗い実家のリビングの床にスーツのまま座り込み、点いていたテレビの画面をボーっと見詰めていました。しばらくすると今話題の画家としてハワイに暮らす小学生くらいの自閉症の男の子が描いた絵が映し出されました。抽象画で何が描かれているのか全く分かりませんが、なぜかその絵を見た途端に自分の意思に反して大粒の涙がボロボロと零れ落ちました。絵を見て涙が出たのはこれが最初で最後です。「就職活動あるある」ですが、何度も就職試験に落ち続けていると次第に自尊心も落ちてくるため、きっと疲れ切っていたのだろうと思います。 

初めてつばさ静岡に見学に来たときに正面玄関を入り最初に目に飛び込んだのは墨で描かれた十点ほどの小作品でした。直ぐにとても素敵な作品だなと感じ、てっきりプロの方が描いた作品だと思い込んでいたのですが、案内してくれた当時の事務長にその旨を伝えると、ここの利用者が描いた作品であると言われとても興奮して、昔、就職活動中の学生時代にハワイに暮らす小学生くらいの自閉症の男の子が描いた絵にとても感動したことを身を乗り出すようにして熱く話したのを覚えています。 

38歳で初めてこの福祉の世界に入ったオールドルーキーとして早5年と数ヶ月が経過しました。幼い頃から絵を描くことが好きで今でも描き続けている自分が、今ここにいるのも上記のように利用者が描いた作品に興味を抱いたからであり、決して人のためになろうという純粋高貴な思いからではありません。20年前の自分が福祉の世界にいる今の自分を全く予測することが出来なかったように、そして祇園精舎の鐘の声のように、自分がこの先いつまでこの場所にいることが出来るのかは全く知る由もありませんが、ただこのような福祉の世界に携わって行けたらよいなと現時点では思っています。それはやはり今回のこの事件のことについて考えたことも含めて自分にとって「考え続ける」ことが出来る世界だと思うからです。 

「思考をやめたとき、人間はいとも簡単に残虐な行為を行う。思考をやめたものは人間であることを拒絶したものだ」とハンナ・アーレントが言うように「ヒットラーの思想が降りてきた」と発していた容疑者はもう既に思考が停止していたのかもしれません。 

この事件とは関係なく、終戦記念日に合わせた放送だと思いますが、先日、たまたまテレビで映画「ヒットラー~最後の12日間~」(2004)を観ました。ソ連軍の進行がベルリンに及びどうにもならなくなってしまった状況の中、アドルフ・ヒットラーは愛する人と結婚式を挙げます。その後、市街地で負傷者の手当てに奔走、生かすための行為をしていた軍医を呼びつけ自殺、死ぬための方法の相談をして妻となったばかりの者と命を絶ちます。戦渦に巻き込まれ死んで行く市民、銃弾に倒れていく兵士、第三帝国で希望に生きるはずの人々が絶望に死んでいく惨状・・・そして自分が最も眼を覆いたくなったのは、いつもアドルフ・ヒットラーの傍らにいた宣伝相ゲッペルス一家の最期、幼い子供たちに囲まれ幸せに満ち満ちていたはずの家族がどうにもこうにもしようがなく救いようのない悲劇的な最期を迎えます。思考が鍛えられておらず精神的に脆い自分には見るに耐えない思考を停止したくなるような場面でした。 

この福祉の世界に入ってから再帰性というものに気が留まることがあります。今、自分が行っていることが既に自分に影響を及ぼしている。再帰性をもとに考えるとき、自分がいなかった昔、自分がいなくなったあとの未来にも考えが及び今このときを思います。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」のように、すべてのものは常に変化して、同じところにとどまることのないその世の中で生きる者が、考えることを止めてしまうということとは一体どういうことなのだろうか、今一度、今こそ、考え、考え続けて行かなければならないのかもしれません。 

 

医師   浅野一恵   川底で光るもの  

   

幼い頃日が暮れるまで探し求めていたもの

川底で太陽の光に反射して光る小石

用水路のへりにこっそり生える数珠玉

山道で拾ったハート形した紅色の葉っぱ

どれもキラキラ眩しくて、私の心は虜になった

そして今私はつばさ静岡にいる

何気なく過ぎていく日常

障害のない人とある人がともにいる

たまたまこの世で障害を背負っていない君と背負っているあなた

毎朝鏡の前で丁寧に髭を剃る君とさっぱりして誇らしげに微笑むあなた

夜ぐっすり眠れることを願い足浴してくれる君と感謝の気持ちを満面の笑顔で伝えるあなた

心を込めて食べやすい食事を毎日作ってくれる君と美味しそうに頬張るあなた 

苦しそうな息遣いを心配する君と精一杯力を振り絞って深呼吸するあなた

オリンピックの歓声をテレビの前でともに喜ぶ私たち

一緒にプールに入って水鉄砲で無邪気に遊ぶ私たち

一緒にお酒を飲んでともに赤ら顔の私たち

一緒に寝転んでファッション雑誌をともに見入る私たち

何気ない日常を私たちはともに生きている

  

たまたまこの世では障害を背負っているあなた

あなたは私たちに最高の笑顔で応えてくれる

人のやさしさに何よりも敏感なあなたは全身で喜びを表してくれる

痛みや苦しみのセンサーを最小限に絞り、楽しみや喜びのアンテナを最大限に広げるあなたは、くしゃみ一つで大笑いする

私が寂しいことを誰よりも先に気がついて、あなたは頭を摺り寄せてくる

あなたがいてくれて、わたしはホッとする

  

あなたのことを大切に想ってくれるひとがたくさんいる

片道何時間もかけてあなたをお風呂に入れに来てくれるお母さん

肩枕をしてあなたと一緒に眠るのを楽しみに訪れるお父さん

あなたの髪の毛を綺麗に編み込みしてくれるお姉ちゃん

ハウスでとれた苺をお裾分けしてくれる農家のおじさん

ひとりひとりの手を宝物のように大事に磨いてくれるエステのお姉さん

一生懸命練習した成果を発表してくれる吹奏楽部の高校生

美味しいものをいつまでも食べられるように口の隅々まできれいにしてくれる歯医者さん

術後の経過が心配でわざわざ見にきてくれる外科の先生

  

そこには広い心がある

そこには深い思いがある

私のちっぽけさをあらためて知る

けれどちっぽけな私も許されていることを知る

そしてちっぽけな私の中に輝くものを見つけられる力があることに気がつく

ちっぽけな私にも小さな優しい気持ちがあることに気がつく

  

ほんの小さな力かもしれないけれど、精一杯伝えたい

輝き続ける光に気がつかせてくれたことへ、ありがとうの気持ちを

そして伝えたい

たまたま障害を負ったあなたと、障害を負っていない君と、支えてくれる優しい人たちに

大切にしてくれてありがとう

私もあなたが大切です、と

  

川底に光るもの

その一つ一つは小さいけれど

その光は人の心を掴んで離さない

一つ一つの輝きがつながって、大きな川の流れになり

私たちすべてを包む大海の深く広い光になる


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