つばさ静岡で重症児者の方々の医療に携わらせていただいて6年が経過し、多くのことを利用者の方々から教えてもらった。
一つ目は「医療の功罪」である。私たち医師がこれまで障害をもった方々に行なってきた医療は、ともすれば「医療のための人生」を強いてしまっていたのではないか。肺炎の予防のために、経口摂食を中止し経管栄養や吸引を行なうことで、本当に肺炎を予防できただろうか。てんかん発作を抑制するための薬物治療によって、発作はやや軽減したかもしれないが、副作用で嚥下障害や呼吸抑制を生じたり、覚醒している時間が減り、その結果五感から多くの刺激を楽しんだり、他者と触れ合ったりする時間(とき)を奪ってきたのではなかったか。筋緊張にこめられた意味を解釈することなく表面上の筋緊張亢進を抑制する治療を行い、彼らの精一杯の表出を奪ってはいなかったか。医療と言う名のもとで、「彼らのため」というスローガンのもとで、一方的な医療者の思い込みを押し付けてこなかっただろうか。「彼ら」といったときにもうすでに医療の奢りが存在している。「重症児者」と一くくりにすることがすでに大きな過ちであり、目の前の「彼」が望む治療や人生は何なのかと問い続けることがこれからは必要であろう。医療は重症児者の方々の療育にとって脇役に過ぎないが、「彼」の訴えをどう解釈し、具体的にどう医療介入するかで大きく人生を左右してしまう危険性があることをわれわれは常に肝に銘じていなければならない。「彼」の訴えをできるだけそのとおりに受け止めるためには、多くの職種の人が「彼」と真正面から向き合い、「彼」の苦しみや喜びはどこにあるのかを感じ取り、各々が感じ取った「彼の思い」の解釈を忌憚なくぶつけ合い、共有しあい、修正しながら具体的な支援や治療を模索し続けることが必要であろう。つばさ静岡で今年度からスタートした超重症児ゾーンでの「多職種による協働」はその足がかりとなる大きな第一歩であると感じている。協働が「彼」の生活に活かされるためには医療や看護やリハビリの功罪を包み隠さず明らかにし、「医療のための人生」から「人生のための医療」に変換できるように互いに考えあわなければならないだろう。
しかし一方で、重い障害を持ち多くの苦しみがある中でも、たくましく生きる「彼」らの姿に非常に感銘をうけ、勇気を得た6年間でもあった。私たちは健康な体を与えられていながらもなかなか前向きになれないものであるが、「彼」らは生きようという意欲に満ちている。どんな苦しい状況にあっても「プラス」の方向に心が動き、それを目指していることが「彼」らのまなざしから伝わってくる。その意志を受け取った職員は勇気づけられ、「プラス」の言動を「彼」らに送ることができる。「彼」らはプラスの言動を確実に受け取り、力に変えていく。そういったプラスのサイクルが「彼」らの周りに出来上がるのである。明らかな言語でのやりとりがない利用者同士であったとしても、お互いを尊重しあい、励ましあい、高めあうという「プラスの場」ができていく。まさに苦しみの只中にある時にも、そのような利用者の方々の前向きな姿に遭遇し、「彼」らの凄さに只々脱帽するばかりである。「彼」らのプラスに向かおうとする意志を「生きる力」に変換できるように支援することがわれわれに求められている。われわれの介入がその意志を台無しにしてしまっていないか、常に自問し続けなければならないだろう。